『銀河最終便』(本阿弥書店)について、
阿部嘉昭さんから感想を頂きました
ブログ、ホームページ掲載のものでないため、
クリックして見に行って頂くことができません。
私信の形で戴いたものですが、
阿部さんに許可を得てブログにUPさせていただくことにしました。
(なお、阿部さんの岡井隆論、水原紫苑論も興味深いものですので、
阿部さんのファンサイトに掲載されている記事を、これは勝手にご紹介させて頂きます。)
なお、阿部さんご自身によるブログ 『ポップスとは何か ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ』が、その後出来ているようですので、そのURLもご案内させて頂きました。
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●望月祥世・銀河最終便
望月祥世様
いまようやく、歌集『銀河最終便』を拝読終わりました。
1119首とは、ものすごくボリュームでした。
読後にかなりの満腹感があります。
僕が殊更の秀歌としるししたのは以下でした。
《七転び八起きの八が来ないからショーソン作曲「詩曲」の中へ》
《一切の敵に離れて春の城 連歌に遊ぶ 滅びてあらむ》
《ソノヒトガモウイナイコト 秋の日に不思議な楽器空にあること》
《水よりも静かに時を刻む音ユンハンス製目覚まし時計》
《森の香も清しき樫の木の舟も二人の櫂も流されていた》
《てのひらに残るぬくもり月光の生み落としたるひかりの卵》
《憂愁・苦悩・絶望・悲惨・呪詛・傲慢あなたが見ていたのは万華鏡》
《水盤に真紅の薔薇を浮かばせて魚の眠りのような一日》
《紫木蓮、白木蓮が並び立つ白木蓮から零れて落ちる》
《手紙には雪解け水の冷たさと春の香りのする草のこと》
《いつだってリアルタイムで書いていて私の鳥は記憶喪失》
《わたくしが雨であるなら弾かれて草の葉つたう雨の一粒》
《カリフラワー、キャベツの仲間ではあるが脳葉に似て春の虚しさ》
(この歌、「仲間」が「眷属」ならもっとよかった)
《ためつすがめつしているうちに一本の樹になってしまえり翠の桜》
《山あいの生姜り花の薄紫 雨の日、雨のひかりあること》
《抜け殻になったら逢おう魂の三重連の水車が回る》
《何かしら悲しい音がするようだ水禽がまた浮巣を作る》
《アレビレオ、デネブ、銀河を飛ぶ鳥が白鳥であるこの世の優雅》
《火星には確かに水があったという 地球に残る水の儚さ》
《ほの甘き千枚漬けの千枚の襞に隠れている赤唐辛子》
《花水木はらはら散れば花筏 一期一会としたためよ歌》
《脱落と脱出の違い知らぬままこの世の淵をさまよっている》
《心肺に貝殻虫が棲みついて殺してしまう少女がひとり》
《「思川」という川の橋 その橋が投下地点と特定される》
《貝殻の中には夢と後悔と潮騒に似た夜の音楽》
《不確かな月の引力、半月は地球を切断する磁気送る》
《蜜蜂の目覚めはいつも静かだが時々死んでいることもある》
《水惑星わずかに歪みなお僅か自転の速度早まるという》
《私ならきっと話してしまうだろう 枇杷の木に吹く風のことなど》
《あるいはそれは自信の問題かも知れず水仙の咲く水辺水際》
《紫の花だいこんに陽はさしてしずかに時は流れてゆけり》
《ゆっくりと俯瞰してゆく鳥の眼の視野の外なる彼岸の桜》
《悲しみを悲しみとして生きてゆく素直に生きて縊られる鶏》
《淡竹茹で蕗茹で雨の日の無聊 雨には雨の光りあること》
《また今日もすすき、刈萱、萩、桔梗、音韻として生まれる生は》
《この後の悲喜にどうして堪えてゆく靄と霞と霧の差ほどの》
《四分儀座流星群が現れる一月四日 戌年の初め》
《そしてまた生まれたばかりの蝶々が吹雪のように飛び立つだろう》
《人生の危篤状態脱出し巣箱のことなど考えている》
《死に上手 白木蓮の咲く頃のとある日暮れの落花のように》
《透明な天使クリオネ別の名をハダカカメガイ肉食の貝》
《たましいのさいはてに咲く花に似て火縄銃にも人の手が要る》
これらはすごく抒情の質がいいとおもいました。
ほかにも数多く、降雨の遍在性に歌想を感じられた歌もありましたね。
雨で、躯ではなく心が動くひと、とおもいました。
ただ、こうして秀吟を抜いてみると、
名詞止めがすごく多いのに気がつきます。
望月さんの個性は、
修飾した名詞に修飾した名詞を対応させる、
塚本邦雄型の喩が多い、ということでしょうが、
それが歌の調べを膠着させ、
詰まらせている例も多いとおもいます。
助詞省略も同様の印象をもたらすし、
並列技法もちょっと多いかな。
動詞・形容詞・副詞どめをして
調べを淡く引き伸ばすと
現状から飛躍的に伸びるのではないでしょうか。
映像作品をふくめた現実、あるいは風景などに
歌の動機を取材なさる手つきは素晴らしいとおもいます。
それと破調歌が失敗しているのではないか。
口語歌には可能性を感じますが、
発想が安直に流れている例も少し目立ちました。
もっと文語(古語)を歌中に交え、
調子を整えたほうが
今後のためにもいいのではないでしょうか。
--と、失礼をかえりみず、おもったことをしるしてみました。
可能性を感じたがゆえの苦言です。
許してください。
それと収録歌数をもっと絞り、
一ページあたりの歌の組数も減らしたほうが
全体が読みやすくなるとおもいます
(ノドの開きにくい造本でしたね。
ノドのほうにも歌が印刷されているので
少し読書動作が辛かったです)。
お節介ながら、おもわず書き込んでしまった添削例を
以下、望月さんの歌→添削のかたちでしるしてみます。
《空に鳥、水に魚というこの春の空の愁いのよう 濁る空》
↓
《空に鳥、水に魚とう分散を空に望めどただ濁る春》
《蜻蛉飼う私の脳は可哀想あまり眠りもせずに夜もすがら》
↓
《あきつ棲むわがなずき軽くあわれなる夜を眠らずに澄むにまかせて》
《鬱兆す雨期の森には幽かながら杳い遥かな麝香の匂い》
↓
《鬱兆す雨中の森ゆ幽かにて胸許を突く麝香の匂いす》
《戦国の時代に生まれ露草の命を武器に戦って殺されていた前世の鷹》
↓
《戦国に生れて命の露草を躙られており前世の鷹が》
《からだ中からっぽにしてあの鳥はぼーぼー鳥は啼くのだろうか》
↓
《満身を小さきうつろにして鳥はうつろの声を渡らせており》
《眠くなる 最後は眠くなって死ぬのだろうか 鳥たちも》
↓
《眠くなる 生の最期に小さなる眠気を覚え鳥も死ぬらし》
《コククジラ、虹を作るという鯨 東京湾は今日花曇り》
↓
《虹つくるとうコククジラ東京の湾は茫とし幻の見ゆ》
《深海の底にも森も丘もあり光りを放つ洞窟もある》
↓
《深海の底にも森や丘があり濃闇を嗜食する洞もある》
決してうまい添削ではありませんが、
望月さんの歌の弱点がこれらでわかるとおもいます。
今後の歌作、そして第二歌集も期待しています。
ご精進なさってください。
斎藤茂吉を精読なさるといいのでは、と
勝手ながらおもいました。
阿部嘉昭拝
(2007年05月19日)
●
――もう少し砕いてみる。
《ソノヒトガモウイナイコト 秋の日に不思議な楽器空にあること》
一字アキを「架橋」にしたうえで「こと」が併置される。
スパークが起こる。
忘れがたい、孤独で哀切なヴィジョンがやさしく、
かつ見逃しえない「不安定さ」をともなって定着される。
女性的な自己愛が幽かに顔を出す。
平易な言葉づかい、音律の魅惑――
よってこの歌は「記憶」のなかに淡さとして即座に定着する。
《てのひらに残るぬくもり月光の生み落としたるひかりの卵》
女性身体の寂寥と、その寂寥を是とする諦念の美しさを感じる。
しかもそれが実は「静かに」つよい。
葛原妙子の次の名吟と対比すれば明瞭だろう。
《月光の中なるものら皆逃るさびしき燐寸をわが磨りしかば》(『薔薇窓』)
葛原の「消滅」にたいし、望月さんの「定着」。
その「定着」には「懐胎」の予感も漂う。ものすごい歌だとおもう。
《山あいの生姜の花の薄紫 雨の日、雨のひかりあること》
「アメノヒ アメノヒカリアルコト」の
何という音韻の美しさ、やさ(羞)しさ。
「曇り日のほうが、ものがよくみえる」と語ったのがモネだったが
静かな目線は、雨の日に自体的に満ちている微明の光を捉える。
そのひかりのなかに薄紫の生姜の花があるのか、
あるいはその生姜の花が「雨の日の、雨のひかり」自体なのか。
僕はたぶん「こと」止めが好きだ。
「忘れない」という意志がその語尾に滲むような気がする。
ずっと昔に角川『短歌』選歌欄で塚本邦雄が選び、
僕がとっくに作者名を失念してしまった一首――
《満月の梨の樹下(こじた)の約束は汝(いまし)の通夜の客となること》
《この後の悲喜にどうして堪えてゆく靄と霞と霧の差ほどの》
雨の日に自充する雨の光を見分ける寂寥の眼は
しかし湿気にまつわる「天文」の微差にも捕らわれてゆく。
そうおもわせておいて、
「悲喜」そのものに靄−霞−霧ほどの差しかない、という
ふてぶてしい諦観や虚無感も滲みだす
(こうした「錯視形成」がこの歌の命だ)。
その「ふてぶてしさ」が書き付けられた瞬間、哀しみに転化する。
倒叙こもごも、見事な技法だとおもう。
「靄」の皮膚に逼る感触、「霞」の遠方的抒情の風合い、
そして「霧」の言葉にある散文的な残酷。
歌人もまたそうした言葉の微差を渡るしかない。
だからこそ、次の絶唱に似た述懐もある。
《また今日もすすき、刈萱、萩、桔梗、音韻として生まれる生は》
●
一首鑑賞はキリがないのでこのへんでやめておくが、
僕が掲げた歌は31音という音数の制約のうえに
「伸びて」「隙間ある状態で」言葉が載り、
制約を宇宙的所与にして跳ね返している好例といえるだろう。
結果、短歌の枠組自体を「宇宙」と捉えかえす契機も生ずる。
歌人の神秘性とは、まさにこの点にある。
望月さんの歌で膠着を感じるときには
短歌という器に言葉がうまく載っていないという判断がある。
「不足」か「過剰」。
ただ「過剰」のときは詩想があふれすぎての失策という気もする。
彼女の素晴らしい歌にはみな「調べ」がある。
この「調べ」の感覚が、器に言葉を載せる際の法則をなす。
「世界構造の探究」とそれは同時的なものだろう。
歌人の個性もそこに宿る。
斎藤茂吉、岡井隆、葛原妙子、安永蕗子・・・
●
歌集の編集は、詩集や句集同様、難しい。
評論集や小説ではあまり起こらない問題だ
(いや評論集はあるかな――短篇集も――
ならばCDに歌曲を集める場合も)。
僕は器に言葉を載せる感覚と
紙や音盤という「基底材」に「部分」を載せる感覚が
相等しい、ともおもう。
これらの点を望月さんが今後さらに含んでくれたら。
すごく期待しています。
(2007年06月19日)
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『阿部嘉昭ファンサイト』URL
http://abecasio.s23.xrea.com/
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短歌関係論考URL
「岡井隆論」
http://abecasio.s23.xrea.com/texts/texts49.html
「水原紫苑論」
http://abecasio.s23.xrea.com/texts/texts13.htm
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『ポップスとは何か ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ』