WEB版 歌集『銀河最終便』 &メモ /風間祥
Finality mail of the Milky Way

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春村蓬さん 紹介して下さってありがとうございます。                 

★春村蓬さんのブログ『さみどり短歌』5月25日 http://plaza.rakuten.co.jp/yomogi619



  五月の風に吹かれながら、ベランダで読んだ『銀河最終便』
望月祥世氏の第一歌集である。
一ページに八首。読み応えがある。
氏は『開放区』の同人であり、またネット上で活躍されている。
私はよく氏のホームページ上で氏の短歌を読ませてもらい、たくさんの勇気と感動を
もらってきた。

クレッシェンド・デクレッシェンドどうしろというのだ降ったりやんだり雨は

バルトーク・ベラ、ベラ・バルトークいずれでもいずれにしても生き難き生


覚悟の破調と、感覚を研ぎ澄ませて直感的に選択された言葉の響きが、氏の歌のなかで光る。


致死量の愛を点滴するように深夜に雫する雨の音

遠く去る鳥には鳥の歌があり水没樹林に降る雨がある


「致死量の愛」 この言葉には参ったな。
氏の相聞はあるときは雨、あるときは花や音楽、そして宇宙といった姿で詠まれているが、
そんななか、この一首は珍しく熱い血を感じた。
それも地球に致死量の愛を点滴している。すごい。


接線を一本引けば現れる まだ生傷の絶えない地球

眠ろうとしてもなんだか眠れない ふつうに戦争している時代

仰ぎ見る文月の空の流れ星 戦場に人は撃たれていたり

失って滅びていつか消えてゆくそれでも人は夢見るさくら

日常はそんなときにも日常であったであろう投下直前

野のはてにタンポポ枯れて綿毛飛ぶ 日本に帰りたいしゃれこうべ


女性歌人にとって難しいテーマを、氏はまっすぐに見据えている。
この勇気と力が私にはない。
致死量の愛とは、自分という小さなものを突き破って地球規模、いや宇宙規模の
愛の量なのだろう。この歌集の意味がだんだん見えてくる。
しかし、氏の目は遠くばかりを見ているのではない。


華麗なる変奏曲を聴くように春の逃げ水走る野火止

野火止の鴨の平穏確かめて小さな橋のたもとを通る

今日の日が無事に過ぎたということの続きに咲いて深山苧環

もっこりとふくらむ鴨が水を掻く 冬がきている野火止用水


通り過ぎてしまいそうだが、ふと心惹かれる。日常こそが詩なのだと思う。
思ったときにとどめのように現れた次の一首。


究極のシュールは写実であるというダリの直感的なパンの絵


私はやっぱり短歌に恋をしている!
再認識させられてしまった『銀河最終便』を閉じたとき、裏表紙にやられた。
そこにあったのは、表紙の銀河を遠く眺めているガリレオ。その望遠鏡。
はらはらとある歌が胸に落ちてきた。


あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ/永井陽子



そうか、そうだったのか。


わが影をしたがへ冬の街に来ぬ 小さなバイオリンが欲しくて/永井陽子


ソノヒトガモウイナイコト 秋の日に不思議な楽器空にあること


大それた発見のように、本当はこんなことは書かないほうがよいのかもしれない。
が、あえてお許しをいただこう。
この歌集の底にながれている哀しみをともなった致死量の愛は、ひと、花、地球、
宇宙、そして未来への挽歌なのかもしれない。


ライラック苦しきことを忘れんと買い求めくる水無月の花

大切な一日のため雨よ降れ しずかにひらいてゆく花がある

あの貨車は今どのあたり過ぎている 遠い銀河をゆく夏燕

千年を眠るためには千年を眠れる言葉が必要であり

一日の終わりは早い 散り急ぐ花であったと時間を思う

: 短歌・読書 : comments(0) : trackbacks(0) : posted by 風間 祥 :
依田仁美さんのサイト 「不羈」で読んでいただきました。                 

★依田仁美さんのHP 『不羈』5月21日 
http://www.ne.jp/asahi/y.yoda/walser/kingkang.htm"


銀河最終便(望月祥世)2007.4.25〔本阿弥書店〕

(2007.5.21)

余談から入ると、望月さんはタルティーニがご贔屓のようでここで先ず意気投合する。

タルティーニ、不死を夢見るヴァイオリン 腱・腓疼く「夜のト短調」

さて、見方をロングに戻して全体を見渡すと

全1,119首という膨大な作品のそよぎは

幾つかの短歌核に端を発しながら、無数に泳ぐ水中花の花弁のようでもある。



貝殻やわけのわからないものたちが私の体に一杯ついて

蜻蛉飼う私の脳は可哀想あまり眠りもせず夜もすがら

いつだってリアルタイムで書いていて私の鳥は記憶喪失

私はこの頃空を見ていない 花の向こうに空はあるのに

望月さんの扱う『私』はしばしば《不可知的存在》として扱われる。

自己を安易に信じない《ニュートラルな自我》ということがどうやら思考の根幹におありのようだ。



これは別に自己に限ったことではなく他の対象に目が及ぶときも同様である。

決して固定観念の中では歌わないというのも目を引く特質のようだ。

心象に結んで消えない無数の水泡。

水がほしい水がほしいと根を張って根ばかり張って瘤だらけの樹だ

華麗なる変奏曲を聴くように春の逃げ水走る野火止

接線を一本引けば現れる まだ生傷の絶えない地球

カリフラワー、キャベツの仲間ではあるが脳葉に似て春の虚しさ

ためつすがめつしているうちに一本の樹になってしまえり翠の桜

あきらかに社会的適合欠いている 天道虫は星で分けられ

落葉あり おまえが散って明るくなる 木々の根方にただ降りしずめ

みんみんがつくつくぼうしが鳴き交わす 魂を病む一夏がある



抒情の核もまたニュートラル。溺れない抒情は却ってわたくしの心に浸透する。

ときには人間の不確実性に。

失って滅びていつか消えてゆくそれでも人は夢見るさくら

めひかりの眼の海の色 誰だって海を釣り上げられない釣り人

実存を鷲づかみする方法を知っているって言っていましたが

風の日に木の実降らせて雨の夜は銀鱗降らす交信記録

ときにはちいさな観察から。

銀蜻蛉、透明な骨さしのべてあなたの肩に触れていきます

天空に大いなる虹または塩 葉っぱに乗った水滴の虹

純粋な培養液の中に棲む諸行無常を培う因子

この後の悲喜にどうして耐えてゆく靄と霞と霧の差ほどの

ときには自分を見つめて。

疲れ疲れ疲れ疲れて足跡も残さず去って夢の負い紐

何という悲しい朝が来ているの 遠い水面に落ちてゆく川

愕然としている 何もかもなんと迂闊に過ぎたことだろう

望月さんは『開放区』のメンバ−、その第1歌集である。

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立花るつさんのHP『寝子的生活』で感想をいただきました。                 
★立花るつさんのHP『寝子的生活』2007年05月03日

『銀河最終便』

祥さんこと望月祥世さんの第一歌集『銀河最終便』(07.4.25 本阿弥書店)を読んでいます。
私の中の祥さんのイメージにぴったりの装丁で、8首組というのも新鮮でした。
WEB頁で書かれた歌の中から1,119首収録されています。
日々あふれ出てくる歌たちばかりだからでしょうか、
歌集の中に生きている歌たちがさらさらと流れているような、そんな気がしました。


以下、『銀河最終便』より10首。

致死量の愛を点滴するように深夜に雫する雨の音

大切な一日のため雨よ降れ しずかにひらいてゆく花がある

病み疲れほろりはらりと紫木蓮 月へ帰ってゆく啼き兎

ほんとうは誰にも何にも興味なくエノコログサは風に吹かれる

一人に向かって人は歌うという 海酸漿を鳴らして遊ぶ

春だから白木蓮の花が咲き天に向かって祈りの形

黙示録の頁を捲る風があり今ほろほろと崩れゆく塔

全部嘘、たとえそれでもいいじゃない 舞台には降る太鼓の雪が

危うくて危うくなくて時は春 やさしい風となる沈丁花

断片に解体されてそこにある焼き菓子のようなヒロシマ


※祥さんのブログ『銀河最終便』はこちらです。

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飛永京さんが『きょしゃーんの肉球』で感想を書いてくださいました。                 

★飛永京さんの『きょしゃーんの肉球』5月9日http://d.hatena.ne.jp/kyopin/20070509



2007-05-09 銀河からの最終便は第一便で

ひんやりん



ここ名古屋は30℃超えでした。所によっては光化学スモッグが発生したそうですね。あれはツライです。三十年くらい前からこっちここ数年前までは無くなっていたのに、中国からやって来てるんですって?困ったものです。



若い人なんかは、公害がどんどん増えているって思ってるようですけど、71-2年頃が全盛でした。ニッポンはがんばって、大気も水も、うんといい状態まで回復させたんですよね。



 きらきらと光るスモッグかきわけて

    古出来←→新瑞 市電は走る   京



その頃の名古屋を詠んだ歌です。そう、わたしはへっぽこ歌詠みで、そのつながりの歌詠みトモダチである、HN風間祥さん(こちらへのコメントはshoseさん)=望月祥世さんが第一歌集『銀河最終便』を出版されました。おめでとうございます。



iぢ@夫の胆嚢摘出手術の当日に届きました。春より強い陽射しが当たる術後快復室の窓際、消えぬ麻酔に朦朧と寝たり起きたりを繰り返す夫のベッドサイドで何度も読みました。



前世紀からの、わたしのお短歌掲示板やら、ご一緒させていただいてたいくつかの歌会掲示板で生まれた歌たちと、わたしの知らないところで生まれた歌たちが半分ずつくらいかしら。



いくつか引用してみます。(この日記は短歌を掲載する仕様ではないので、一首一行で収まらないかもしれません、ご容赦を)



「詩曲」より

クレッシェンド・デクレッシェンドどうしろというのだ降ったり止んだり雨は

バルトーク・ベラ、ベラ・バルトークいずれでもいずれにしても生き難き生



名歌。祥さんの特徴的な歌でもあると思います。定型から思いっきり外れているのに、とっても短歌。するすると石清水のように涌いてくる祥さんの歌。



どちらもとても懐かしい歌ですが、特に二首目は、リストもバルトークも、わたしたちと同じで、苗字が先で、赤ちゃんの頃にはお尻が青かったのねぇなんて話をしていて生まれた歌だと記憶してます。ちょっとした話からこんな素敵な歌がひょいひょいと出てきて、しかもそれらはノートに書き出されることもなく、直接、掲示板の投稿フォームにタイプされるという恐ろしく即興な瞬間の技。



音楽ネタをもう少し。



「詩曲」より

リコ・グルダ、パウル・グルダに父グルダが愛していると伝える楽譜

旋律ハソコデ膨ラミソコデ消エソコデ躓キソコデ泣クノダ



歌舞伎ネタもお得意。読めば見たような気になります。



「詩曲」より

舞台には時空をこえる橋が架かり 江戸のすべてが通って行った

魚屋も飛脚も手代も虚無僧も 遊女も瓦版売りも通って行った



上のように、何首かが同じ言葉で読まれたものも多いのが特徴的。ずっとリレーのように繋がって出てくるのでしょう。



「海の絵」より

貝殻やわけのわからないものたちがわたしの身体に一杯ついて

貝殻をとりたくたって離れない中から腐るだけの流木

でもやがて魚が中に入って来て 私は魚になっていました



これはもしや雨月物語?って連想するつかの間、話は展開されて、祥さんの静かな無常の世界に跳んでいってしまいます。もの言わぬ静かな自然を見る目がとても好き。



「午睡の時間」より

アレルギー物質一杯溜め込んで痒いのだろう漆、櫨の木

野の果てにタンポポ枯れて綿毛飛ぶ 日本に帰りたいしゃれこうべ

吊されしまま削がれゆく鮟鱇の胎内にありし頃の水嵩

ブック・オフに知は百円で売られけり 海を渡って死んだマンモス



歌集のタイトル『銀河最終便』って辻褄が合いにくいですね。銀河に最終便があるとは思えませんから。銀河鉄道ならわかりますが。その辻褄の合わない不思議な味わいも祥さんの歌の魅力です。適当にくっつけちゃった偶然の代物でもなさそうで、とっても面白く、遠くへの旅をさせられます。



「野の果て」と「ブック・オフ」に見られる、上句と下句の遠さはどうでしょう。なのに納得させられてしまいます。



ああ、キリがないのでこれくらいにしておきます。ご興味のある方は、http://sho.jugem.cc/?eid=2126 へ。無くならないウチにご注文をどうぞ。装丁もとても素敵です。とくに裏表紙が好き。スピノザかガリレオか、そんな人がいる。



目覚めては眠り、眠っては目覚める人のそばで、ぱらぱらと捲った歌集は、まるで画集でした。どこを捲ってもすーっと一目で景色や情景が見渡せて。1頁に8首のぎゅうぎゅうづめの歌集、とっても読みやすかったです。著者は行空けなしのもっとぎゅうぎゅうづめ歌集が夢だったようですけど、わたしには丁度よかったです。



麻酔から覚めて自室へ移動したiぢ@夫に、「祥さんの歌集が届いたよ、黒田くんも載ってるよ」って言ったら、「黒田?はぁ?」って首をひねりながら読んでいました。そう、黒田くんが歌にしてもらってるの。前から知っている歌でしたけど、印刷物になるということは格別なものなんですね。祥さん、おめでとう、ありがとう。



 隻眼の猫の名前は六郎太 黒猫、黒田六郎太と聞く 

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